未発表の長編小説の連載を始めました。すでに書き上げて出版のタイミングを待っていた作品ですが、このご時世で出版までしばらく時間がかかりそうなので、これを機にこちらで少しずつ公開することに決めました。今後有料化する可能性はありますが、当面は無料とします。「洋子ちゃん。きみ、誰か待っている人でもいるの?」陽当たりのいいカウンセリングルームは今日もとても静かだった。室内ではエアコンが低いうなり声をあげている。やわらかい低反発のソファの感触が眠気を誘う。外の庭には色とりどりのアジサイの花が咲いている。そしてその周りを、さっきからハチだかアブだかわからない虫がぶんぶん飛び回っていた。 わたしが黙ったままでいると、先生は続けて言った。 「洋子ちゃんを見てるとね、なんだかこう、親鳥が迎えに来るのを待ってる野鳥のヒナみたいに見えるんだ。 先生はそう言うと、ひと呼吸置いてわたしを見た。 「こういう仕事をしてるとね、毎日いろんな人に会う。で、その人たちと話すうちに、ぼくが得たあるひとつの大事な経験則があるんだ。 それはね、むやみに誰かを盲信するのはひどく危険だということだ。 その人はいい人かも知れない。言っていることは正しいかも知れない。だけどね、たとえそうであっても何かが間違っている時がある」 部屋の隅でベルが鳴った。カウンセリング終了5分前だ。なのに、先生はいっこうに話を終わらせる気配がなかった。 「世の中には『いい人たち』がまったくの善意で始めたことが、下手をすると悪人が確信犯でやるよりたちが悪いことがある。 ぼくはそういう『いい人たち』の善意を信じてついていった結果、一生癒えない心の傷を負わされた人を大勢知っている。 カウンセリング終了のアラームが鳴った。先生は言葉を切り、テーブルの上の大学ノートを手にとると、まっ白いページを開いてそこに鉛筆で大きく円を描いた。 「これが、ぼくらの生きる世界。 ほとんどの人が、基本的にはこの円の中で生きている。 そして、この円の中にいる限り、きみもぼくも安全だ。だけどね、じつはこの外にもうひとつ、まったく別の世界がある」 そう言うと、先生は円のふちに今度は小さくドアを描いた。 「それは案外ぼくらのいる世界からすごく近いところにあって、世の中のほとんどの人はこのドアの存在を知らない。だけど、たまにこのドアに気づき、外へ出ていく人がある。 しかも、このドアの外の世界ときたらそれはもう魅力的で、いったんその存在に気づいたら飛び込まずにはいられない。ぼくが恐れているのはね、洋子ちゃん、きみはひとたびこのドアを開けてしまったら最後、もう二度とこちらには戻ってこなくなるんじゃないかってことなんだ」 先生はそこで言葉を切り、まっすぐにわたしを見た。 わたしに英才教育とやらをほどこし、無理やりエスカレーター式の名門女子校にやったのは明らかに母の失敗だった。入学そうそう、ひと月もたたないうちにわたしはひきこもりになったからだ。 分不相応なお嬢様学校はそりの合わないクラスメートたちの巣窟だった。大企業の社長令嬢だの、官僚の娘だの、そういうのばっかりで、誰とも話が合わなかった。 もともと人づき合いの苦手なわたしがそんな環境になじむはずもなく、そもそも、あんな空間にこんな協調性のない人間を放り込めばどうなるか、そんなささいな想像力さえ持ちあわせなかった母をわたしは恨んだ。 学校へ行かなくなったわたしを母はカウンセリングルームに連れてきた。 カウンセラーの先生はやせていて声が小さく、夏の終わりに育ちきれなかったうらなりのナスみたいな人だった。 気管支が弱いのか、ときおりつかまえた蝶が手の中で暴れるような音の咳をして、ちゃんと年を聞いたことはなかったが、顔だけ見れば意外と若く、しかも、かなり男前だった。いつまで経っても若く美しくありたいという願いを捨てきれないわたしの母が、ひきこもりになったわたしのカウンセリングにここを選んだのもそのせいだ。ただ残念なのは、先生のその頭が、まだ若いのに雪をかぶったように真っ白だということだった。 初めてこのカウンセリングルームに来た日、わたしはつい先生のその白髪頭をじろじろと見てしまった。しかし先生は気を悪くする風もなく、そのわけを教えてくれた。 「昔、友達だと思っていた人にだまされてしまってね。信じられないくらいの額の借金を背負わされてしまったんだ。それを必死で返すうちに頭がこんなになっちゃって」 そんな体験を笑顔で語る先生の左手薬指に指輪はなく、それから借金を返せたのかどうか、そういえばわたしはまだ聞いていない。 先生は初対面のときに白髪頭になったわけを話してくれた以外は、基本的には自分についてはほとんど何も語らなかった。 その先生が今、珍しく熱っぽく話しているのだった。「きみは生まれつきあの世界に通じるなにかを持っている。うまく説明できないけれど、ぼくにはそれがわかるんだ。わたしは先生から視線をそらし、ノートに描かれたドアを見た。わたしはゆっくり顔を上げ、まっすぐ先生を見て言った。 「先生」 先生は驚いた様子でわたしの顔を見つめていた。無理もない。 わたしがこのカウンセリングルームに来て以来、こんなにまとめてしゃべったのは初めてのことだったからだ。 「そのうち気管に水が入って、息ができなくなりました。 走馬燈っていうんでしょうか、ああいうときにこれまでの人生が頭をよぎるの、あれは本当にそうですね。今まで起こったことがいちどきに見えて、ああわたし死ぬんだ、って思いました。だけどその時、あるものがわたしを助けてくれたんです」 わたしはそこで言葉を切り、先生の顔を見た。 もしこの先生がこのとき持論をぐいぐい押しつけてくるようなやつだったら、わたしはまず間違いなくその言葉を無視したろう。言い返す気になったのは、少しはこの先生が好きだったからだ。 先生はしばらく考えていたが、やがて観念したように口を開いた。 「なんだったの?」わたしはうなずいた。 「別名電気クラゲとも呼ばれてる、大きな青いクラゲです。そのクラゲがぷかぷか浮いてて、青い風船みたいに見えたものだからわたし、思わずそれに力いっぱいしがみついちゃったんです。わたしはそう言うと、シャツの袖をまくり上げて先生に見せた。 「だけどそのとき声が出て、それで助けが来たんです。先生に経験則があるなら、わたしにだってそれはあります。わたしのそれは、他につかまるものが何もなければカツオノエボシだって構わないってことです。 先生はいま、わたしに外の世界がどうとかドアがどうとかいろんなことをおっしゃいましたが、もしわたしが火事にでもあって、目の前にその変なドアしかなかったらどうするんですか? 先生はそういうことも全部含めて、わたしに何も信じるなっていうんですか?」 先生はなんといったらいいかわからないという顔をしていた。まるで、水たまりに放したオタマジャクシが翌朝干上がり、音符みたいになっているのを見てしまった子供のようだ。 「きみは、今いくつなんだっけ」 先生は床に視線を据え、そのままの姿勢で黙りこんだ。 大人にしては上出来な反応だった。こんな時、適当なことを言いつくろって子供をごまかそうとする大人のなんと多いことか。けれども、先生はそうしなかった。かわりに先生は長い沈黙のあと、やがてわたしに頭を下げた。 「すまなかった。どうやらぼくは、きみにうかつなことを言ってしまったらしい」 わたしはじっと黙っていた。すると先生はさらに言った。 「そう、今のぼくには、きみにカツオノエボシ以上のものを出せる自信はない。そうである以上、ぼくはきみに何か言う資格はない。そうだね?」 わたしは返事をしなかった。すると先生はその沈黙を肯定とうけとったのだろう、しばらくテーブルにひろげられたままのノートをじっと見ていたが、やがてふとなにかを思いついたように晴れ晴れとした表情になった。 「ねえ、きみに祝福をしてもいいかな」「ほら、よく教会なんかで牧師さんが信者の人にやるだろう? ぼくはクリスチャンではないけど、ごくたまにむしょうに誰かに祝福を授けたくなる時があるんだ。今がそうだ。長年こういう仕事をしていると、もうこの人に必要なのは祝福しかないという時がある。洋子ちゃん、きみには無限の可能性がある。ぼくはそれを知っている。だけど、きみのその生き方は、よほど運命の女神さまの機嫌をとっておかなければかなわない生き方だよ。ひとつ間違えば身の破滅、へたをすれば命とりだ。 気休めかも知れないが、そういう人には目に見えないものの祝福が必要なんだ。きみが人生の節目節目で正しい選択ができるよう、悪しきものの誘惑にうち勝つことができるよう、ぼくはきみに精いっぱいの祝福を授けたい。どうかな?」 今度はこちらが黙り込む番だった。わたしは救いを求めるように窓の外の景色を見た。 庭には色とりどりのアジサイの花が咲き、たがいに研を競っている。白にブルー、青紫に赤紫、それらの大輪の花がみな、いっせいにこちらを向いている。まるで人の顔みたいだ。そのまわりをとり囲むつやのあるふかみどりの葉の上を、一匹のカタツムリがのっそりと這っている。ラベンダーのアロマが漂う、平日午後のカウンセリングルーム。ちゃんとした人たちはみな、会社か学校にいる時間だ。外からは廃品回収車のアナウンスが聞こえてくる。 ーうつらないテレビでも構いません。動かないパソコンでも構いません。 (洋子) わたしは大きく息を吸い、自分に向かって問いかけた。おまえの人生、どこからどう見ても完全に詰んでるな。トラック一周目で早くもつまずき、この先どこへ行こうというのか? 「……どうぞ」 わたしは視線を部屋に戻し、ゆっくりと頭を下げた。すると先生は嬉しそうな顔になり、わたしの頭に手を置いた。「主よ、どうかこの子にあなたの祝福をお与えください。この子がこの先どんな目にあおうとも、いかなる罪を犯そうとも、大いなる慈悲をもってその罪をお許しください。そして来たるべき審判の日に、父と子と聖霊の御名(みな)神様のたぐいは信じないが、いま振り返れば先生はあのとき、なにか神託のようなものを得たのだと思う。(最後まで読んでいただき、ありがとうございます! 見ていただくだけでも嬉しいですが、スキ、コメント励みになります。 ご購入、サポートいただければさらにもっと嬉しいです!書き溜めていたものを少しずつ公開していきます。
オール巨人 髪型 昔, ブルガリ プールオム ソワール ドンキ, 翻訳 フリーランス 中国語, ポケモンxy ラブカス 色違い, 倉敷市 浜町 中古住宅, オウン ド メディア カテゴリ, 二ノ国 攻略 イノシカ, 乃木恋 探索 優評価, How Much Sleep, あいみょん アルバム 売上枚数, 仁王2 秀吉 ネタバレ, 小野 賢 章 花澤香菜 共演 作, Jurassic Park T-Rex, ヒロアカ MMD ダウンロード, あいみょん スピッツっ ぽい, 神話 エリック 両親, イノセント デイズ 後味, 生田 絵梨花 無料スマホ壁紙 25, ポケモン 身長 一覧, アメトーーク Dvd 仮面ライダー, タオバオ アプリ 日本語立身 出世 委, Fp 大 飯店 難波 南, おおきく振りかぶって 32巻 発売日, 映画館 車椅子席 後ろ, カリフォルニア 州立大学 La 校, 貸す人 借りる人 言い方, Picky Eater 日本語, Ff7r マリン 列車墓場, 十代 妊娠 コロナ, まんぷく農家メシ 挿入歌 歌詞, ネスレ ドルチェ グスト マシン, 仮面ライダー 一 番 面白い 映画, カイミ 卒業 後, MAD HEAD LOVE ヒロアカ, 香川県 モデル 募集, Tonight This Evening 違い, Csd 690fhr カタログ, 平野紫耀 ドラマ 花 のち 晴れ, 長岡 ラジオ 周波数, うちわ イラスト かわいい, コンスタンティン サタン 足, スピッツ ベース弾いて みた, 竹 達彩奈 LINE 終了, 金曜ロードショー アンク かわいい, 佐藤健 中村倫也 仲, キャラバン 標準ボディ キャンピングカー, 紅蓮華 歌詞 善逸, ドラゴンクエスト3 Snes Rom, ARK オベリスク 落ちる, ドラクエ2 大灯台 Fc, イーグルクリーク パックイット キューブセット, サイコパス 服 ホログラム, 齋藤飛鳥 ソロ 曲 コラボ, ドライブレコーダー Hdr963gw 価格, 盛岡 四 校 と 北 高 の 差, テイラー スウィフト 経歴, ドイツ語 命令 Doch, 菅田 将 暉 クリスマス, VOGUE JAPAN 香水, Pso2 ファントム 武器迷彩, 風来のシレン アプリ 盾, EGO~eyes Glazing Over, 49 ドラマ 主題歌, 千葉銀行 Cm 乃木坂, 新宿セブン ドラマ 配信, 松村邦洋 金 八, 夜 撫でる メノウ ピアノ, 国 菊 甘酒 開封後, レゴ ジュラシックワールド 75938, ハイキュー 成田 名言, Are You Interested 意味, スターウォーズ/フォースの覚醒 プレミアム ボックス, レゴ 難しい ランキング, 竹野内豊 倉科カナ 馴れ初め, ソウルシルバー デンリュウ 薬, ヒロアカ 映画 DVDレンタル ゲオ, PSO2 エラーコード 23, 今泉 健司 さん を 応援 する 会, 米津玄師 アルバム クリアファイル, タモリ 子供 いない 理由, ヘンリー王子 虫 が いい, 竈門炭治郎 イラスト かっこいい, 香水 服の下 香 ら ない, 中田 花奈 エア ジョーダン,